桑原 弘之(くわはら ひろゆき、1937年6月9日 - )は、広島県広島市段原(現・南区)出身 の元サッカー選手(DF)・指導者。実弟は桑原楽之。

来歴

父親は弁護士で東大時代、テニスとボートの選手だった。弘之も運動神経がよく、広大付属小、広大付属中学までは野球に親しんだ。広大付属高校に入学すると野球部がないこともありサッカー部へ入部。高校1年からサイドハーフのレギュラーを掴み、1953年全国高等学校サッカー選手権大会で岸和田との引き分け優勝に貢献。3年時はインサイドハーフをやった。高校時代はスピードのあるフォワードタイプの選手だった。鬼武健二は2つ下の後輩にあたる。父の後を継ぐため中央大学法学部へ進学し、1年サッカーを離れ勉学に励む。しかしサッカーの魅力を忘れ去ることが出来ず2年の9月にサッカー部へ入部した。恵まれた運動神経で1年半のブランクを取り戻し、3年時に守備的なセンターハーフ(CH)にコンバートされレギュラーとなる。

卒業後1960年、東洋工業(現マツダ)へ入社。東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に入団。当時の東洋には日本最強のCH・小沢通宏がいたが、一時小沢からポジションを奪う。一年目の後半から右フルバック、二年目からは左フルバックに定着。1965年から始まったJSLでは実弟の楽之や小沢、小城得達、松本育夫らと活躍し、前述の4人に加えて石井義信、今西和男、丹羽洋介、船本幸路らと共に"守備の東洋工業"として一時代を築く。1966年から小沢にかわってキャプテンを務め、JSL優勝4回、天皇杯優勝3回に貢献。

1971年に丹羽、岡光龍三とともに引退し、岡光とともに東洋工業コーチを務めた。その後は東洋工業/マツダに勤務した後ジヤトコへ移り、ジヤトコサッカー部の強化に努めた [1]。

所属クラブ

  • 広島大学附属小学校
  • 広島大学付属中学校
  • 広島大学付属高等学校
  • 中央大学
  • 1960年 - 1970年 : 東洋工業蹴球部

指導歴

  • ?年 - ?年 : 東洋工業コーチ

個人成績

参考文献

  • 『サッカーマガジン』1967年6月号

関連項目

  • 広島県出身の人物一覧
  • 兄弟スポーツ選手一覧



桑原 器乐教研部 华南师范大学音乐学院

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2018_桑原_雅弘 | ホッケー 日本リーグ|一般社団法人ホッケージャパンリーグ

教員一覧

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